下原 勝憲
ATR人間情報科学研究所
E-mail: katsu@atr.co.jp
あらまし:豊かさを実感できるサイバー社会の創生に向けて、人々が自発的な情報発信を通じて生きがいや自らの存在意義など個人的・社会的価値を発見できる情報通信環境を実現することが重要である。人間は、社会的動物と言われるように、他との関わりを求め、その関わりに意味を見出す存在と考えることができる。ATRでは、コミュニケーションを“他との関係性のあり方”と捉え、ネットワーク上でのサイバーソーシャルな人間と人間、人間と情報とのインタラクションを活性化し、人々が多様な関係性を見出すことができるコミュニケーション創発機構の研究を進めている。本稿では、そのようなコミュニケーション創発機構の研究の基本的な考え方や研究課題について紹介する。
キーワード:コミュニケーション創発、進化システム、関係性、人工情動、社会ダイナミクス、遺伝子ネットワーク
1.はじめに
IT(情報技術)革命のことばに象徴されるように、コンピュータの普及とそれらを結ぶネットワーク化の進展は情報通信環境に劇的な変化をもたらしてきた。この変化は、これまでの「時間・距離の短縮」型の通信から「多様な時間・空間の創出」型の通信へ、必要連絡型の「メッセージ空間」から常時接続型の「自由生存空間・社会産業空間」へとパラダイムをシフトさせ、ネットワーク上でのコミュニティやサイバー社会の出現を可能としつつある。それらに加えて、携帯端末などの通信技術の普及と多様化、ペット型・人間型ロボットの出現とそれらへの社会的関心の高まりは、人類とコンピュータが共存・共栄する「新しい情報文化」の醸成をもたらすものと期待されている。
しかし,ITやネットワーク化を通して人間と人間、人間と情報との出会いの機会は拡がりつつあるのに反し、人々はコミュニケーションの豊かさを実感できず、むしろ疎外感や孤立感を深め、コミュニケーション不全が散見されるのも事実である。人間はなぜコミュニケーションを欲し、コミュニケーションに何を求めるのか?そのような根元的な問いかけに応えるためには、“コミュニケーションは人間の本能である”との立場にたち、人文社会科学的な見方も含めて情報やコミュニケーションの本質を探究する情報学的な視点から、人間と人間、人間と情報、人間とシステムとのコミュニケーションを捉え直すことが重要である。
我々は、人間性豊かなコミュニケーションの実現に向けた研究の一環として、情報学的な視点からコミュニケーションの新たな可能性を探るコミュニケーション創発機構の研究を進めている。ここではコミュニケーションという行為の基にある人間の本能的な習性に働きかけ自発的な情報発信を促すシステム技術および情報間の関係性を自律的に創発(発生・変化・発達)させるシステム技術の創出を目指した研究に関して、その基本的な考え方や研究課題について紹介する。
2.コミュニケーション創発機構
人間は、社会的動物と言われるように、他との関わりを求め、その関わりに意味を見出す存在と考えることができる。本研究では、コミュニケーションを“他との関係性のあり方”と捉え、システムとの相互作用を通じて人々が多様な関係性を見いだすことのできるシステム構成技術の創出を目指している。
ここで、関係性とは、対象とする要素同士が時空間的、構造的あるいは意味的に結びつけられることを意味し、創発とは、要素同士のミクロレベルの相互作用からマクロな構造や状態が生成・出現し、さらには変化・発達するプロセスと定義する。従って、コミュニケーション(関係性)創発機構とは、人間−システム間でやり取りされる情報同士が自動的に結びついて構造化され、その構造化された情報に人間およびシステム各々が意味付けを行い、そのようなプロセスを繰り返しながら構造化された情報とその意味付け自体を変化・発達させる仕掛けのことである。言わば、情報が情報を呼ぶように情報が集合・離散しながら、人間あるいはシステムにとって意味がある“かたち”に情報が自動編集される様子に例えることができる。
そのような機構を用いて、コミュニケーションという行為の基にある人間の本能的な欲求や習性に働きかけることを考える。人間は自分自身を知り(自己希求欲)、自己を表現し(自己表現欲)、自らの存在の意味を確かめ(存在表現欲)、自らの存在を集団のなかで位置づけたい(関係性欲求、社会帰属・参加欲)という思いをもつ。そのような人間の本能的な欲求を喚起し、そのための情報表現を簡便に支援する技術を創り出すことにより、人々の自発的な情報発信をごく自然に促すことが期待できる。
以下では、[1] 関係性創発の基本的な方法論としての進化システム機構、それを核技術として[2] 他との関係性の中で生ずる価値観・評価機構をシステム内に育む人工情動機構、[1] [2] の社会学的な研究展開として、[3] 社会の中での人間個々を相互作用する要素として関係性創発機構を適用する社会ダイナミクス、また、近未来における情報通信環境にとって無視することのできない研究展開として、[4] 生体内の化学反応をタンパク質や酵素を要素とするネットワークの創発機構と捉える遺伝子ネットワークの研究について紹介する。
3.進化システム機構
人間の本能的な習性に働きかけ自発的な情報発信を促すためのひとつの視点は、人間の想像力(イマジネーション)や創造性を刺激し、人々の自発的行為としての自己表現や創造(クリエーション)を可能かつ容易にすることである。そのために、ヒューマン・システム・インタラクションに関わるコンピュータに自律性(自ら判断する能力)と創造性(自ら情報を生み能力)を付与することを考える。そこで、提案した概念が進化システムである。進化システムとは、自発的あるいは相互依存的に変化をつくりだす機構とそれらの変化をシステムとして調整・統合していく機構に基づき、新しい機能や構造をシステム自らが獲得・形成していくシステムモデルである。
具体的には、プログラムを進化の媒体とするソフトウェア進化、電子回路を進化の媒体とするハードウェア進化の方法論を研究する[1][2]。例えば、ハードウェア進化では、人間の脳に匹敵する神経細胞を有するニューラルネットワークをハードウェアとして発生・成長・進化させるセルオートマトン型人工脳(ハードウェア進化)のプロトタイプ化を行い、それを用いたロボットの適応行動の進化実験を通じて、システム構成法としての進化システムの可能性を明らかにする。
また、進化システムに基づく関係性創発機構のひとつとして、情報の自己触媒機構(自動編集機構)の研究を行う。この研究は、情報が情報を呼び、情報同士が反応して、ある種の構造を自動的に形成する仕掛けづくりを目指すものである。そのための視点として、関係性の創発を促す情報学的な構造としての日本文化に着目する。例えば、人間は、自分の行為の意味や価値を特定する情報を他者との関わりの中に探りながら自らの行為を調整している。そのような関わりを情報構造として「型」化(アーキタイプ化)することにより相互理解と情報共有を効率化し、さらには、「型」の使い方を習熟することにより内面の充実化を図る仕組みが日本文化であると捉えることができる。この研究では、情報学的な視点から日本文化の持つ関係性創発機構としての情報構造(「型」)をモデル化し、ヒューマン・システム・インタラクション機構として具現化することを目指す。具体的には、そのような「型」をベースに、情報同士が自己触媒的に反応し、ある種の知識としての情報構造体を動的に形成する情報の自己触媒機構を創出する。またオートマトン(有限状態機械)とオートマトン間の相互作用を進化的に生成・発達させる機構を用いて、世界中の民話・童話などの物語や子供の遊びに共通する「型」に基づいて、人間とシステムとのインタラクションにより創発的・即興的に物語の自動生成を行う物語自動生成システムを構築する。
4.人工情動機構
人間とコンピュータが相互作用を通じて多様な関係性とその意味を相互に見出すことができる創発機構の創出を目指すのが人工情動機構の研究である。ここでは、“他との関係性の中で生ずる価値観および評価機構”を「情動」と捉え、そのような価値観および評価機構をコンピュータ自身が内部構造として自律的に育む仕組みを「人工情動」と定義する。すなわち、人間とコンピュータが相互作用のプロセスを通して、コンピュータの内部に価値空間や評価機構が創発し分化するような機構創りを目指す。
そこで重要となるのは、コンピュータ自身が自他を区別できることであり、さらには自他の境界を自由にかつ複数設定できることである。我々人間は、自らが置かれた状況やその時々の立場に応じて自他の境界を自由に設定する。その自他の境界に応じた価値観・評価機構に基づいて、外部からの情報を認識・解釈し、自らの言動を選択・決定する。例えば、物理的な個体としての自己のみならず、家族の、グループの、所属する組織や集団の、そして、国家や民族の一員として自己を位置づけ、その上でものを考え、発言し、行動し、その意味や効果をその位置づけに応じた価値観で評価する。或いはまた、個体としての内側に、客体化した自己をつくりだし、自らの言動を反省したりする。個体としての価値観と組織の一員としての価値観の違いから葛藤することもある。
従って、関係性創発機構の創出に加えて、コンピュータ自身が自他を区別し、自他の境界を動的に設定することができる自他境界の動的設定機構、および創発的な関係性の意味付けの違い(例えば、喜怒哀楽など)から構成される価値観空間を自他の境界に応じて形成・発達させる価値観・評価機構を創出することが課題となる。
5.社会情報学としての社会ダイナミクス機構
本研究では、人間が営む経済・社会活動を自然現象と捉え、経済・社会ダイナミクスを創発させる情報伝播構造をモデル化し、そのダイナミクスを予測・制御するシステム技術の創出を目指す。具体的には、集団系をマルチエージェントシステムとしてモデル化し、相互作用による役割分担と階層構造の形成を可能とする組織学習モデル[3]、および進化システムとネットワーク解析モデル(Small World Network ModelやScale-free Network Model)[4]を組み合わせて集団系の情報構造の成長・衰退プロセスを同定する進化型ネットワーク解析手法を構築する。
特に、進化型ネットワーク解析手法に関しては、遺伝子系・神経系・代謝系・免疫系などの生物的ネットワークから社会的生物集団やWorld-Wide Webネットワークまでを含む大規模かつ自然なネットワークを対象に、それらに共通する自律的な自己組織化機構や自己維持・適応機構および統一体として機能する調整機構を解明するための研究も併行して行う。具体的には、コミュニケーション・プロトコル、階層化やモジュラー化、信号の同期や多重化、タグ名やリソースの自動割当や交渉手順などの観点から大規模かつ自然なネットワークを捉え直し、それらネットワークの動的なコミュニケーション機構、成長・衰退機構、計算機構やその能力を明らかにする。
6.ゲノム情報学としての遺伝子ネットワーク
人間の基本的な行動様式が遺伝情報に左右されていることを考慮すると、ゲノム情報の視点から人間のコミュニケーション行動を理解することも重要となる。個々人のゲノム情報に基づく医療・食品・健康のための情報流通、ヒューマンインタフェースの究極のかたちとしての個性化、個々人のゲノム情報と関連付けたネットワークサービスなど、近未来の情報通信に対する影響は極めて甚大である。本研究では、そのような研究展開も視野に入れつつ、関係性創発技術とハードウェア進化技術を組み合わせた波及効果の大きい応用展開として以下の研究を進めている。
すなわち、多細胞生物の遺伝子ネットワーク(分子間生化学反応)を超並列アーキテクチャ型のハードウェアとして具現化し、遺伝子ネットワークの高速シミュレーションを可能とするシミュレータを構築する。合わせて、生物情報に関するデータベースの上位レベルでの統合化を可能とするため、多様な情報の意味関係や内容を表現可能で、かつ、観点に応じて情報構造を自己組織化できる情報表現モデルを用いて生物情報の知識基盤システムを構築する。最終的には、両者を統合化して、知識基盤システムが仮説を生成、遺伝子ネットワークシミュレータがその検証を行い、その結果により自律的に知識獲得を行う仮説生成/検証/学習システムの構築を目指す。
7.おわりに
コミュニケーションを“他との関係性のあり方”と捉え、人間と人間、人間と情報とのインタラクションを活性化し、人々が多様な関係性を見出すことができるコミュニケーション創発機構の研究に関して、研究の基本的な考え方や研究課題について紹介した。このような研究を通じて、コミュニケーションそのものを質的に豊かにすることの可能性を探っていきたい。
本研究は通信・放送機構の研究委託「人間情報コミュニケーションの研究開発」により実施したものである。
参考文献